眠い、睡い、ねむい
映画を観ていて眠ってしまうことがよくある。全編にわたってうとうとしていて、夢の中で観たような映画もそこそこあったりする。
映画を観て眠りたい訳ではなく、観る前にはきちんと観通すつもりで観始めるのだけど、それでもうとうとしてしまう。作品に責がある場合もあるにはあるけど、それよりもこちらがくたびれていたり、ご飯を食べた後であったり、それなりに眠くなる条件を揃えていたりするので、多分責があるということならこちらの方か、と。
("眠い映画"は退屈なのか?まあ、退屈としても、じゃあ、退屈はそもそも悪なのか?ここでなにかよい引用を持ってこれたら、という気がするけど引き出しになにもない。)ここは余計か。
映画評としては甚だ不正確だし、映画感想としても不鮮明だし、じゃあ"眠い映画"についてマニアックに掘り下げていこうかというとそんなつもりも毛頭なく。別に"眠い映画"について考察したいんじゃない。そもそも"眠い映画"≒退屈な映画、生真面目な映画というものがあるかどうかもわからない。ぼくの場合、どんな映画でもそれなりにねむい。
ただただ、「映画はねむい」。
そういうものかもしれない。それでも映画を観るという。そういう風にして映画を観ててもいいんじゃないか、と。
前置きが長くなったけど、言葉が先行してる感が否めないけど、「映画はねむい」という視点というのか態度で、映画について書いてみたい。うまくいかなそうだ。
2023年の映画初めは、自宅でDVDで観た「フェリスはある朝突然に」。最初にはっきりさせておいた方がよいかと思うので、「フェリスはある朝突然に」は"眠い映画"ではない。
1986年製作のアメリカ映画。1980年代にアメリカ学園映画の雛型を開発したとされるジョン・ヒューズ監督の、これもそうした学園映画の内の一本。とこれくらいの基本情報は載せておこう。
主人公の高校生フェリスは朝目が覚めて、天気がいいしこんな日に学校なんか行きたくない、とズル休みすることに決める。首尾よく親も学校も騙し、彼女や友達も巻き込んで、そうして一日羽を伸ばして楽しく過ごす。このお気楽さが新年にちょうどよくて、一昨年も確か新年最初の一本にこれを観た。
ルーティンな生活をちょっとエスケープするみたいなことが必要じゃないか、ということをあらためて気付かせてくれる作品でもあり、そういう意味でも年始にちょうどいい。新年の抱負とか考えるときに、フェリスがズル休みすることを自分なら何に置き換えてみるか、とか。
フェリスと彼女と男友達と3人でフェラーリに乗ってシカゴ市内へ繰り出し、シカゴ美術館でアート鑑賞とかリグレーフィールドでカブスの試合観戦とか思いつくまま遊び歩く。このあたり楽しくてねむい。夢のように観てる方が、ここではむしろ合ってる気もする。微睡み。
シカゴ美術館の所蔵作品の目玉のひとつに、スーラの「グランド・ジャット島の日曜日の午後」という絵があって、晴れた穏やかな川べりの休日の様子が点描で表現されてる。この絵をフェリスの友達がジーっと、ひたすらジーッと見てて、そのジーッと見てる目と絵の点描とがカットバックされて、段々と点描が拡大されていく。画法に魅了されてるとかじゃない。トンボが目の前で指をグルグル回されて目が回るみたいな(これはこういう格言か何かのような気もする)、そんな感じでそのフェリスの友達は最後はスーラの絵に降参する。なんかわかんないよ、点だって点じゃないみたい。
ハッとして気がつくと、街中でのパレードにフェリスが乱入してて、勝手に「ツイスト・アンド・シャウト」を口パクで歌う。ここは泣ける、前後の筋なんてわからなくても。パレードに参加してる人、パレードを観てる人、老若男女分け隔てなくみんながフェリスに魅了される、というかもはやフェリスなんか認識してない。祝祭に包まれる。多幸感。「ブルース・ブラザース」のレイ・チャールズが演奏して街中みんなが踊るシーン、あれの多幸感と通ずるなあ、と。
みんな嫌々それぞれが属する社会のルールに従ってるのに、フェリスは飄々とそんなルールを無視して如才なく立ち回り、それでいて周りから好かれる。まあ、これに腹を立てるフェリスの妹や校長の気持ちもわからないでもない。
特に校長は自分の立場を顧みず、一方的にフェリスへの憎しみを募らせる。けれども頭に血が上るほどに自滅し、痛い目を見る。靴をなくし、泥まみれの靴下をずるずる引きずって歩く、ズボンもかぎ裂き、見るも無惨な姿。でもどこか愛しい。結局この日は校長はフェリスにまともに会えずじまいで、一人勝手に立ち回ってそんな結果。
フェリスは時々「ホーム・アローン」の主人公ケビンと被る。多分成長したケビンがフェリスなんだろう。フェリスもケビンも画面のこちらを見返して、「で、この映画を観てる君は何をしてる?」と目で訴えかけてくる。何って、映画を観てる、うとうとしながら。