映画はねむい 2023年10月

 10月5日から10日まで神保町にある美学校スタジオで、昨年美学校の『生涯ドローイングセミナー』を受講したメンバー6人で『ドローイングその後2023』と題したグループ展を開催した。タイトル通り、ドローイングを昨年1年間学ぶなり実践するなりして、その後どうしてますか?ドローイングしてますか?的な発表の場。美学校は1969年創立のアート全般表現活動全般の私塾で、別にスキルを身につけるとか資格を得て仕事にするとかいう実務に繋がるような教育の場では全然なく、なにか表現したいともやもやしている人たちの遊び場もしくは避難所みたいなところ。自由でオープンな気風が最大の魅力。展示はここ半年ほどのドローイングのピースから150点ほど現場でチョイスし、概ね時系列にでもランダムな感じに壁に貼りまくった。安易な。もっとやりようはあるだろうに。一枚一枚のドローイングの出来不出来は正直どうでもよくて、大体が不出来なのだけど、それらをどう見せるか活かすか再利用するか、そこに面白みがある。見せ方もドローイング的にやりたい。でもそうした意図や自身が感じる面白みを伝えられるような展示になっていたのかはわからない。
 今年受講している美学校『特殊漫画家〜前衛の道』(講師:根本敬)クラスで、「福田村事件」を題材にした講義があって、共同体=ムラ社会の結束が引き起こすよそ者に対する暴力だとか、特定の集団に内在する暗黙のルールだとか、個人がある集団に属すといとも簡単に長いものに巻かれてしまうだとかについて考えさせられる。排除されたり抑圧されたり弱い立場に置かれたりする側からアートという形をとって表現されるもののこととか。そうしたアートは評判になったり、高く評価されたりしやすい、ように思うのはなぜか。今具体的な作品や作家を思い浮かべてそう考えてるわけではないけども、アウトサイダーアートなんかを念頭に置くと当てはまるだろうか。そういうアート≒アウトサイダーアートとかを好む方なので、評判になったり高く評価されたりするのを非難するつもりはない。むしろそうして取り上げられて知ることができるアートが多いので。ただ、弱い立場から生まれるアートを、「これぞアート」として消費させようとする一種の権力に敏感になる必要がある。この権力を行使しているのは誰なのか?少なくともそのアートを生み出した本人ではない。強者がいて弱者がいて、その構図を利用して漁夫の利を得ようとしている輩がいて、その罠にかかって巻き上げられる輩がいる。とかつらつら考えていると、この辺りで根本先生がちょうどこの時期『蛭子能収最後の展覧会』をプロデュースしていたこととリンクして、「福田村事件」を取り上げたのも認知症を患っている蛭子能収の作品を「これぞアート」として消費させようとする権力と裏で戦っていたことが背景にあるのか、とか。森達也監督『福田村事件』を当然このタイミングで観に行かなければいけなかったのだろうが機会を失してしまう。

 疲労がなかなか抜けなくてせめて気持ちだけでもリラックスできるようなそんな映画を観たいなと。川島雄三の『洲崎パラダイス赤信号』を久々に観る。甲斐性なし決断力なしのダメ男と、過去に遊郭に勤めていたと思われる気っ風はいいけど実はツンデレで幸薄げな女とのつかず離れず根無草人生ドラマ。2人がたどり着いた先が、洲崎遊郭の大門の手前にある小料理屋。この舞台設定が素晴らしい。冒頭、金のない2人が知ってか知らずかやってきた先は洲崎遊郭。ここで女は再び遊女として働かなければならないのかと険しい表情、けれども男はそれを強く止めようともしないで「いや、お前、それはちょっと、、、」などとグズグズする。追い詰められ踏み外す一歩手前で、先の小料理屋が目に入り女はその店に飛び込む。たまたま求人を出していたその店で女は勤めることになり、ギリギリのところで生活を立て直すきっかけを得る。それでも目の前には遊郭があり、女の仕事は小料理屋の女給、男は近所の蕎麦屋の出前持ち、まだまだ安定には遠い。遊郭のネオンは毎晩きらびやか。まもなく女にはパトロン=旦那がついて、2人の関係はギクシャクし始め。監督の川島雄三は、はっきりと欠陥とはいえないけども生活能力に欠けたこの男女を、突き放すことなくといって甘やかすこともなく描く。そこになんとも言えないじんわりとした温かさを覚える。ぬるめの湯に浸かって身体の凝りがほぐされるような。
 先日健康診断を受けたら視力がガタ落ちしていた。左右で06と0.7だったのが、0.2と0.3。日常生活に大きな支障は出ていなかったけれども、今年の初めにつくったきり放置していた眼鏡をそろそろ使うタイミングかと観念する。はじめの1週間くらいはかえって目が疲れるような違和感が大きかったものの案外すんなり眼鏡生活へ移行。不思議と周囲からも「眼鏡になったんですね」的な声も一切かけられず、それだけ違和感がないのかそもそも他人の顔など誰もが興味ないのか触れてはいけない事情を感じ取るのか、いや眼鏡くらいで話題にしてもらえるなんて自意識過剰に過ぎるのでは。テレビ画面に映るテロップの輪郭がクリアに見えることへの驚きはなく、むしろ眼鏡をはずして以前にも増して視界がぼんやりしていってることの方が興味深い。これくらい世界はぼんやりと見えててくれた方がいいのでは、とか。
 それにしても気が付けば今回は映画のことにほとんど触れていない。10月末になってU-NEXTで『アメリカン・スリープオーバー』が配信されてるのを知って早速観てから、アメリカ学園青春ものジャンル熱が久し振りに高まり、2010年代のこのジャンルにおける傑作を続けて観たりしたのだけども、それについては来月にまわそうかと。